トビリシの夜

目の前の野球帽を深くかぶった男は自分はマレーシア人だと言っている。

確かにグルジア人にしては浅黒いし、ヨーロッパ人というよりはどちらかというとアジア人の顔に見える。しかしこんなアジアともヨーロッパとも言えない辺境にマレーシア人がいるとは思えない、どうも胡散臭い。

だが彼と話を続けているとどうやらそれはあながち嘘ではないことが分かった。私の知っている片言のマレーシア語を言ってみるとそれにマレーシア語で答えてくる。

彼がマレーシア人かはともかくとして過去にマレーシアと関係があったのは間違いないだろう。この東欧の果てでマレーシア語を知る人間などいるはずもないのだ。

泊まるところがないんだろう?

と彼が切り出した。

その通りなのだ、この「安全ではない」と言われる都市で路頭に迷っていた。

安全でないと言われるトビリシで路頭に迷う
【写真】安全でないと言われるトビリシで路頭に迷う

しかも、もう夜中の12時に近い。「どうにかせねば」とは思うのだが、こういう時に限ってよい寝られそうな場所が見つからない。異国の夜を荷物を満載した自転車でふらふらしている行為自体がかなり危険なのだ。

しかし彼について行っていいものか悩むところである。

以前インドでヤクの売人の家に連れて行ってもらった時はやはり後悔したし、アゼルバイジャンでも「ちょっとまずいのではないか」と思う人について行ってやっぱりとんでもなかった。

もちろん逆のケースもある。すごい強面の人が実はすごいやさしい人だったということもあるのだ。しかし経験からするとまずついて行ってはいけないタイプの人間に見える。

理由は向こうから親しげに話しかけてきたこと、流暢な英語を話すこと、目つきがなんとなくやばいこと。完璧にまずいと思うなら、明らかについて行かないのだが、どちらともいえない感じなのだ。

「少し様子を見てみようか」とそういう気持ちでその男に付いて行くことにした。行き先は彼の家。

その男は「マニ」と名乗った。正確には「マニ」ではなかったが聞き取れなかっので私の中で彼はマニになった。

見知らぬ人について行くときは常に観察するようにしている。まず、彼がその地域で顔見知りかどうか、そしてその友達がどういった感じの人か。

もし、彼の家の近くに行っても全く知り合いがいないようであれば要注意である。

自転車を押しながら彼の横を歩く。たわいのない会話をしながら歩いた、マニが「日本に行ったことがある」というので「どこに行った?」とか「兄弟はいるのか?」とかそんなことを話す。

マニは明るい道から暗い道へ
【写真】マニは明るい道から暗い道へ

彼が暗い路地の方へ進みだした。

やばいな・・・

ここで彼の仲間が待ち伏せていて身包みをはがされるということも想定できる。私には初めて歩く見知らぬ町だが、彼にとっては庭のようなところだろう。

暗い路地を彼は迷うことなくスイスイと進んで行く。街灯もなく、幹線から外れて道は薄暗い、時々家々からもれている明かりで足元が見える程度だ。前方に数人の人影が見えた。

やばっ

彼の仲間か?

こんな時はさっさと逃げ出すのが得策なのだが、人影に近づくと、その人達は背中を向けている、つまり路地を私達と同じ向かって歩いている、待ち伏せならこちらを向いているはずだ。私達の歩く速度が早くその集団に追いつく、追い抜く時に「チラッ」と見ると、10代後半から20代前半の若者でだいぶ酔っているようだった。

ほっ

と緊張の糸が切れる。万が一襲われた時には何を持って逃げ出すかを考えていた。それから、荷物をすべて投げ出して走る、もしくわ大声を張り上げるそんな作戦だ。幸いまだ人家があるようなので殺されはしないだろう。

そんなことを思いながら暗い路地を進んでいく。

しばらくしてから小さな女の子と母親が別の道からこの路地に入ってきた。彼は「よおっ!」と母親に親しげに挨拶をして小さな女の子を抱き上げた、どうやら顔見知りらしい。顔見知りがいるというのは彼はこの地域の人間の証明になる。

ほっ

しかし、よく見ると母親の顔がなんか険しい。知り合いに会って子供を抱き上げられたらもっとニコヤカな表情をするのではないか。

むむっ、この状況は??

彼は顔見知りだが、親しい間柄ではないということだろうか。彼にあまり親しくして欲しくないということだろうか憶測が頭を巡る。

それから親子は後ろの小さな路地を折れてすぐに見えなくなった。

何事もなかったように彼はトビリシの闇の中を進んで行き、少し遅れて私は自転車と一緒に彼について行く。

細く暗い路地を歩き続けた。ずいぶん長く感じたが、実際には短い時間だったのかもしれない。

ふとマニが木の扉の前で足を止めた。

背丈より高い木の塀で囲まれているので中の様子は分からないがここがマニの家らしい。

塀の中から明かりは一切漏れてこない、人気(ひとけ)がしない。

マニは入り口が上手く開かないらしくノブを乱暴に回してから「クソッ!」という感じでドアを思い切り蹴飛ばした。

ホントにここは彼の家なのだろうか。

しかしあの入り組んだ道をわざわざここまで来たということはここが彼の家なのだろう。

マニは苦戦の末なんとか木戸を開いた。

それから「こっちへ」と私に合図をするので彼に続いて自転車ごと扉をくぐる。

中は小さな庭になっていて昔の長屋のような屋根を連なった家が3件ほどが庭を共有している。

どうやら他の人もここに住んでいるようだ、庭先に植木鉢が並び、雑草も生えていないので生活感があるが建物の窓に明かりはない。

彼は一番右の建物に入り口の前に行き、扉を開け中に入ると明かりが灯った。

家の中は二部屋、手前がキッチンフロアで奥が居間兼寝室になっていて、いずれも6畳ほどの広さだが生活用品がごちゃごちゃと置いてあり、とても狭く感じる。マニは私に向かって

「ここに自転車を入れろ」

と命令口調で言う。

自転車を入れたら方向転換もできないほどいっぱいになってしまうぐらいの広さしかないのだが、言われるまま自転車を押し入れる。

それから「こっちへ」といって奥の部屋に呼ばれ、その部屋に置かれたテーブルセットのいすに腰掛ける。席に着くとマニが

「お茶を飲むか?」

と聞いてきたのだが、「もしかして睡眠薬強盗?」と余計な心配が頭をよぎったので、

「いいや」

と断る、すると彼は一人でコーヒーを入れて飲んでいた。いらぬ心配だったかも。

しばらくテレビを見ながらたわいのない話をしていると、

「外に行こう」

とマニが言い出した。

「えっ、こんな深夜に?」

時計はもう12時を回っている。

「なぜ?」

と私は聞き返した。

「彼女が来るんだよ」

とマニが答えた。

彼女を迎えに行くなんてなかなかいい奴じゃないか。そんな理由なら賛成だ。

「それでは行こうか」

と立ち上がり私達がちょうど家から中庭に出た時に例の庭先の戸口が開き、女性が入ってきた。マニが「おおっ!」と合図をする、どうやらマニの彼女らしい。彼女がいるというのはかなり安心できる。少なくとも彼女からは信頼されている男性なのだろうから。

「ほっ」

ところが彼女は家に入るなり、(たぶん)私の自転車を見て

「ナンなのこれは!!」(だと思う)と声を張り上げる。

そしてマニに向かって怒った様子で怒鳴っている。

言葉は分からなくても人間が怒っているというのは分かるものである。続けざまに何かを言っているが理解不能。しかし、マニが冷静になだめて彼女は少し落ち着き、テレビのある奥の部屋に入る。そしてしばし落ち着いたと思ったらまた二人が何か言い合いを始めた。

「まぁよく喧嘩をするカップルなのだろう」

と私は微笑ましく見ていた。

その時はなんとなくテーブルの上にナイフがあるのが目に入った、たぶんパンを切るナイフだろう、気にも留めなかった。

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コオロギ
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