予定ではカルトーネの街が10kmくらい先にあるはずだ、平らの道から下りの道になった。標高140mまで上がっていたので下りが長い。
下りきってからまた平らな道を進むと街中に入った。13kmだった、町に入ったのはよいがどちらがセンターか全く分からない。通りかかった若者に尋ねる。お陰で、すぐに街の中心に着いた、中心にある広場は「ピタゴラ広場」。
中心地で「どこで手品をしようか?」とウロウロしていたら、年配の男性に
「日本人か?」
と話し掛けられた。「そうです」と私が答えると「お腹が空いていないか?」と唐突に聞かれる。
この時は空いていなかったので「いいえ」と言うと、今度は「何か飲むか?」と聞いてくる、どうあっても話がしたいという感じがしたので、カフェをご馳走になることにした。
彼の行きつけのカフェらしく、店員が愛想よく彼に挨拶をしている。カプチーノとチョコのお菓子をもらった。
彼はフランコさんと言って、1962年に日本に行ったことがあるというのだ。当時はオイルタンカーの仕事で長崎、神戸、川崎に行ったという。
そして今は絵描きをしているというのだ。オイルタンカーの船乗りから絵描きとは随分と異業種界に転職したものだ。
そしてフランコさんが書いた絵が載っている名刺をくれた。
「もしよかったら、食事をしに来ないか?」
と誘われたので、今はシエスタの前で手品をしたかったので「後ほど伺います」と言う返事をした。
カフェから街に戻り、手品のできそうなところを探すと、すぐによい通りが見つかった。
この街のメインの通り。シエスタの直前まで手品をしてから、先ほどの名刺に書かれた電話番号に公衆電話から電話をかけて、場所を尋ねる。
フランコさんのアパートは中心から少し離れた郊外でそこまで自転車で行くとすぐに分かった。
ヨーロッパは通りの名前と番地が分かればすぐに目的地が見つけられるのがよい。
アパートの5階の彼の部屋に入って驚いた、壁という壁に彼の作品が飾られているのだ。
本当に絵が好きなのだと思う。人の顔から、風景画、船の絵まで幅広い分野の絵が壁一面に飾られていた。
フランコさんに
「どうして見ず知らずの旅行者にこれほど親切にしてくれるのですか?」
と尋ねると
「あれは忘れもしない・・・」
という語り口調で話しを聞かせてくれた。
1962年の12月24日 タンカーの仕事で日本に上陸した時のことだ。
キリスト教徒にとってのクリスマスだが、フランコさんは故郷から遠く離れた見知らぬ地におり、寂しさを感じていた。
トボトボと港の近くの道を歩いていると突然声をかけられた。
「ちょっと待て」
声の主は年配の女性で
「あんたどこから来たの?」
と話しかけてくれ家に招待してくれ、食事をご馳走してくれたというのだ。
その時の優しさがとても印象に残っていると言う。
だから、自分も日本人に出会うことがあったらその恩返しで、家に食事に誘おうと思っていたというのだ。
もう50年以上前の話でその日本人女性が誰だか知る術はないけど、彼女のやさしさがフランコさんの心の中に残り、そして私が今、彼から恩を返されているのだ。人のやさしさの連鎖を感じる。
そして私もいつか誰かに、この話をしながら恩を返していきけたらなと思う。
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