第四回 Japacity深掘りインタビュー ゆっきーさん!

前回はモントリオールのミッキーさん、そして今回は滋賀のドローンさん改め、ゆっきーさんこと金谷幸男さんにバトンが回ってきましたよ!

Meiko

おはようございます。今日はよろしくお願いします。

ここまで、Japacityの深堀りシリーズを含め、メンバーインタビュー記事をお読みになった機会はありましたか?

ゆっきー

深堀りシリーズになってからの、ミッキーさん、Yasuakiさんのは読んでます。その前のは、、あんまり読めてないです~、ごめんなさい~💦

Japacityって?

Meiko

いえいえ、ありがとうございます。これから時間があったら過去記事も覗いてみてくださいね。逆に過去記事見てないなら、より緊張せず、他の記事内容など気にせずに、自由にお話しくださいね。

ゆっきーさんと言えば、Japacity初期メンバー。思い出も多いと思います。途中お忙しくなってしばらくクラハから離れられていましたが、再びの参加。最近はCo-Host&リーダーズチームにも参加くださってのJapacityですが、そのあたりの話からお聞きしていいですか?

ゆっきー

ご無沙汰になってしまっていたのは、単純に動画クリエーター養成講座関係などで忙しかったのがシンプルな原因でした。いやな事があって離れたという背景は全くなかった。でも実は離れていた間もずっと気になってはいたんです。なにかふとしたきっかけで「みんなどうしているのかな」って思っていて。機会があって戻ってきた時に、昔とおんなじ空気感で迎えてくれたこと、その空気感がうれしかった。

Meiko
その空気感って言葉で表すとどんな感じですか?
ゆっきー
Japacityにはいろんな人材がいて、出会いの宝箱のようなルームだと思っています。普通に会えないようなすごい人が何人もいて、ちょっとこちらが遠慮しちゃうっていうのが常かなっていうような顔ぶれだったりするところなのに、みなさんが本当に普通にしゃべってくれるのが貴重で嬉しい。なんでみんなこんなに平らに話してくれるのかな。
Meiko

ホント。私も常々そう思っています。

それでは動画クリエーター養成講座や初期にはドローンさんと名乗っていたゆっきーさんの生業についてお聞かせ下さい。

職歴遍歴!

ゆっきー

その昔は、毎日新聞の子会社に勤めていた時代が25年あって、その時はものすごく楽しい時代でした。当初からとにかくやりたい放題させてくれる社長で、つぎつぎ新しい事を、太っ腹で好きにやらせてもらっていたんです。いちいち許可を取ってしなくてはいけないというような環境では全くなかったんですね。

Meiko
その時はどんな立場でお仕事されていたのですか?
ゆっきー

あくまでも子会社だったんですけどね。毎日新聞大津支局ビル内一階に私の勤務先である直系の広告代理店があり、二階には支局長や次長そして夜討ち朝駆けの記者たちがいるという環境でした。滋賀版記事下の広告を取って来るのが生業でとにかくいろんな企画をやりました。仕事が楽しかったし工夫も凝らしました。

忘れもしない「顔企画」っていうのを企画営業会議で立案。その①~⑫顔写真に胴体と足をイラスト化。吹き出しでコメントを入れて、”さてこの人は下のA~L枠のどのかた?ってクイズ形式に読者から応募ハガキがドッと届いただけでなく顔写真の撮影にご協力頂いた方にも「見たよ!」と知り合いからも声を掛けられるなど、広告効果の見える化で大ヒットしました。こういう新しい企画をするのが好きだったし、広告のやり方を切磋できる環境にあったんです。

実は嫁も地方版(京都版)の広告代理店「萬年社AG」で働いていて映画日載などを担当していた人で、新聞社(大阪本社)での研修で知り合い、内情を知っていたこともあり、彼女は私の仕事には理解の深い人で、そういう意味でも働きやすい環境でした。

いろんな企画や活動をしていたという意味では、Web製作、イベント検定の資格取得、デジタルハリウッド京都校でAdobeのソフトの関わりで審査員として受講生の卒業制作の作品の審査をしたり。そんないくつもの活動や企画の中で様々な人とのご縁ができました。思い返すと、様々な新しい事に着手しても必ず協力者が出てくるというラッキーなめぐりあわせがある私なんです。

イベント関係の仕事の思い出も多いです。デジハリ卒業生と審査員の交流会で、産経新聞のグループ社「リビング新聞」のデジタル化やイベント部門の担当者が実施していた交通安全協会の表彰イベントにタレントさんを呼んで楽しんでもらうという仕事を同業他社の私に引き継いで、彼はその会社を辞めていったのですが、このイベントの実績が元々は新聞広告だけの関わりだったShiga BMWの仕事をWEB制作やラジオCMやTVCM、そしてShiga輸入モーターショーのイベントの仕事をやってくれないかという話になり、京都の輸入モーターショーの実務経験者を繋いもらえるご縁に巡り合えたり。本当に、何かあると誰かが現れて手伝ってくれるし、新しいチャレンジが本当に楽しい時間でした。

携帯メールの仕事をしていると、ある社長と仲良くなった事で、「広告取ってきてくれる?」っていうお話をいただき結果を出したら、一般の広告代理店の相場との比較では予想もできないくらい高額の報酬をくださった。いろんな所に出入りしている経験値の高い方がたに、私との仕事は一般の新聞広告の担当者とは一味違うかもしれないと思っていただけたのか、いくつもの新しい提案に乗ってくれる人も多くいらっしゃいました。とことん聞いてくれて、協力してやってくれて、そんなプロジェクトがどんどんと続いていきました。

そんな時代は時と共に変化を始め、新聞がだんだん読まれないという時代になっていったんです。広告の掲載に繋げても結果を出せない。広告効果をあまり出す事ができない、実感できないという時代がじわじわと始まる事に。

この仕事はすでに限界が来たかと考えました。新しい仕事にどんどん打ち込んでも売れない。それでも売れない紙面を盛り上げていかねばという使命。苦しい時間の中で働いていたその子会社は4000万の借金経営に陥る、そんな時代を迎えていました。

社を盛り立てるべく、新聞の購読拡張のようなキャンペーンにも一生懸命貢献しました。大阪本社館内でのキャンペーンで掲げていた基準を達成したのは子会社の私たった一人で、本社社長の感謝状をもらうくらい頑張ったりしていました。それでも購読者減の歯止めがかからない、それを目の当たりにして。転職しかないという局面に行きつきました。

次期社長にというお話も出たのですが、車一台買えるか買えないかくらいの退職金しか予測できないその会社を継ぐのは違うかなと思ったんです。

可能性としてやりようがあるのなら、社を継いだかもしれません。時代はすでに新しい事をやってもやっても新聞広告だけではお金を生まないという構造に変化してしまっていたんですね。。。

Meiko
いつ頃のお話ですか?
ゆっきー

その楽しい25年間が終わったのは今から10年前。その後の10年はいばら、、だったかなぁ。

新聞の広告の仕事をしていた時代、商工会議所にも関わっていた関係で、企業、商業セミナーの広告を数多く手がけていました。サクラで参加した企業セミナーもいくつかあったんですよ(笑)。当時は人材派遣業で操業します!と発言している元気な人が何人もいて、「これからは人材派遣業が時流か」と思っていたら、たまたま参加したセミナーの朝食会でテーブルでご一緒した方が人材派遣業の社長さんでした。日系ブラジル人の派遣業でした。お誘いを受けそこで働く事になったんです。

その転職を伝えるべく挨拶周りをしていた先で、松下電器産業(現Panasonic)から独立創業された方が、「いい所に来た!私の先輩で人材派遣をどんどん受け入れて展開している松下出身の人がいるからそこを訪ねなさい。」と言われ尋ねて行ったら、「ぜひ!人材を入れてほしい」と即刻言われて、人を派遣。大口の開拓先が大阪だったこともあり、滋賀から大阪に足しげく通っていました。いつの間にか寝る時間もなく行き来して働くことになっていた。なぜなら夜中の2時にプレイング・マネージャー(統括部長)として現場にも通訳と一緒に行かなくてはならなかったからです。管理業務に行くと、戻ってくるのは朝。日々、一時間か二時間ほどの仮眠でまた出かける。。

そんな暮らしが長く続くはずがなく。

経営者団体の社長から、「君が頑張っているのは聞いてて誰もが知っているけど、倒れる前にやめた方が良いよ」の声。自分でも間違いなく倒れるなと思い、人材派遣のその会社からは退社。

その後、人材派遣先だった住友電工の協力工場でiPhoneの中身を作っている会社のマネージャーが辞めたので直ぐにでも来てほしいとお声をかけてくださって転職しました。電子事業部ではなく、新規のベーカリー事業部というのがあって、そこの責任者がやめたから、ということで頼まれたのがいきなりの営業本部長。主にラスクを作っていたのですが、日保ちがするので、ゴルフ場とか道の駅とかに置いてもらえるよう営業して回っていました。

ただ、ほどなく住友電工の仕事が中国に移管され売上が6億くらいで吹き飛んだんです。今度は社長室に呼ばれて勤務時間中でも構わないから、次の会社探してくれていいよ。の声。これは終わったなと感じ退職しました。胆のう全摘手術と失業のショックが重なり体調復調を優先し、あちこちから紹介やお誘いの言葉があったのですが全て断りました。年齢もあったし、体の不調、これはある意味恐怖でした。

Meiko

仕事ができる人に仕事が集まる。過酷な労働になっちゃう。皮肉ですね。でもゆっきーさんは「人」のいる場所での営業や人を繋ぐお仕事のフィールドではひっぱりだこ。。だったんですね。でも体を壊すのはつらい。。。

ドローンの世界へ

ゆっきー

しばらく休んでいた頃、時間差で私が仕事を辞めたことを聞いて電話してくれたのがポスティングの会社だった。それで次にはそこでお世話になったんです。でもブラック企業というのも申し訳ないですが、中々強烈な会社だったんです。ここでもずいぶん辛抱して働いていました。しょっちゅうポスティング現場にも行くけれど、同時に広報の責任者もしていたので、顧客向け広報紙やスタッフ通信の仕事は嫌いではなかったのでやっていましたが、そこにさすがに骨を埋める気にはならず。

ただそこから、なんの武器も手に職もなく転職するのはと思い、ドローンスクールに通い資格を取りました。その後プログラミングも学びました。ドローンで撮った映像を撮りっぱなしにせず、編集まで終結できるように学ぼうと、動画クリエーター養成講座というかなり受講料の高いオンライン講座に2年間くらいお金をつぎ込んで勉強しました。

そのうちドローンを飛ばしに来てとか、ついでにイベントの撮影してと次々声がかかりはじめ、出張で県外まで行ったりあちこち出ていました。ただ仲間はほとんどの人が琵琶湖にドローンを沈めてロストしているし、自分は山でロストしたりしましたし、みなその度に新しいドローンを買うことになるんですね、リスクは高いし、空撮の法律規制が厳しくなる背景もあり、ドローンよりプロカメラを使う撮影の仕事をした方が効率も利便性も良いかなと思いプロ仕様のビデオカメラ機材一式にお金をつぎ込みました。営業に回ったら、また「たまたまいい所に来てくれた」という声に出会う事に。。。

Meiko

何を手掛けても声がかかる、引っ張りだこですね、本当に。人のご縁やそれまでの信頼関係がそういうつながりを連れてきたり繋いでくれたり。。なんですね。

ゆっきー

そうですね。そして時代はコロナ禍になっていました。研修会のビデオの仕事にまたまたタイミングよく出会い、中村天風財団関連がらみで、会った事もない東京のとある社長が動画編集の仕事をやってくれないかって声をかけてきました。養成講座終了まで待ってほしいといったら待ってくれて、そんな仕事をさせてもらったりしているんです。

これで独立できそうだ、という思いもあって。ご祝儀にも恵まれていましたが、サラリーマン時代の月収を自営の仕事で取れるかというとそれは甘かったので、毎日新聞に公告を出してくれていたバス会社の夜勤の運行管理の仕事を半年間やむを得ずやりました。母の介護も昼間にできるしと思ったんですが。たださすがに介護しつつの二つの仕事は厳しかったです。。

という事で今年の6月にそのバスの会社は辞めて、今は完全にフリーです。

現在は県の起業相談を担当されているとても良い方と巡り合えていて、プロのアドバイスを受けながら、闇雲にではなくきちんと学んでの起業・創業に向かっている現在です。

ご家族のことと中村天風先生

Meiko
ご家族の事を聞いても良いですか?
ゆっきー
妻と、娘が二人います。転職の岐路でかみさんは理解者でした。彼女も同じ業界で働いていたし、新聞社関連事情を良く分かってくれていました。彼女は結婚後もしばらくは働いていましたが、子供が生まれてからは家庭を支えてくれました。娘の一人は、同じ学習塾に通っていたという縁があった地元の友人と自宅近くのコンビニで再会~という出来事から結婚。その彼は私の大学の後輩だったりして。なにかと縁があるんです。もう一人は歯科衛生士としてクリニックで働いています。
Meiko

ゆっきーさんは、穏やかな声、落ち着いた語り口、なにか心がけられている事ありますか?そして中村天風さんを尊敬するポイントは?

ゆっきー

それはですね、私が大学生の時代に、中村天風財団に入れ!と最初に行ってくれた伯父がいたんですが、その叔父は明るくていつも愉快だったんです。ただ順風満帆な大学時代には入らなかったんです。実は毎日新聞の子会社の前に、日清医療食品という会社にちょこっと入っていたことがあり、ポケベル3つ持って、神奈川から沼津、静岡、浜松エリアを担当していて、一日300キロ走行の営業職で働いていたことがあって、そこで体つぶして帰ってきたら、伯父が(今度は)「だまされたと思ってついてこい」と言って連れていかれたのが、中村天風財団の京都支部でした。

そこで学ぶことになった座禅法、呼吸法、クンバハカ(肛門を閉めて方の力を抜いて下腹に気を込める)。これを心静かにすると非常に気持ちが安定するわけです。瞑想するときにこの体勢を取る事をし続けると体がそれを覚える。

俗世間で働いでいるとイライラしたり、怒りたい気持ちになる瞬間がある。その時にこのクンバハカをすると、本当に気持ちがすっと落ち着くんです。この会は厚生労働省所管の公益財団法人になっていて「密法だから、隠すべし」とうような会ではなかったので、色々学んだし、通いました。

そこが一つの転機になり、天風師はお亡くなりになりましたが、コロナになるまでは東京の志賀道夫先輩を訪ねて、天風先生の教えに関わるいろんな学びを40年近く続けでいます。

このことはいまでは自分の中では趣味のような感じでもあり、心の安定とはこういう事だろうなと思える秘術(こういう言い方は好きではないですが)であるクンバハカで、瞑想している時のような穏やかな気持ちが何時でも一瞬で取り戻せるという事ができるようになり、イライラしたりする事からは解放されているかなとは思います。

Meiko
これは毎日の生活の中でも実践できているということですね。
ゆっきー

そしてさらには天風門下の方で、石川県在住の陶芸家で中村元風という方からは「帰り矢の法則」を教えて下さいました。

帰り矢の法則とは、例えば、「自分がこうなりたい」という思いは弓の的のようなものだいうこと。

時に、天風会に入ると何でも上手くいくというような表現で発信される方がいるんですけれど、その発信を聞いた多くの人方が「お金持ちになれる」と勘違いしちゃったりするようにみえたりします。

真の解釈では、天風に学ぶと何でも実現する、例えばお金持ちになると願うとお金持ちになるのは事実だったりするのですが、だた、私利私欲に基づいて放った矢は、狙った的🎯には当たるけど、同様に跳ね返って帰って来て痛い目に遭う事も知って居なくてはならないんです。

陶芸家の元風さんにはこう言われたんです。

私利私欲でお金持ちになりたいと願いが叶ったとします。でもそのなり方は自分の息子が交通事故で他界して、多額の保険金が入るとか。。そういう事が起こるわけです。

夢の実現に努力する事は悪くはないけれど、私利私欲にへばりついていると、嬉しくない、好ましくない事が起きたりする。との点は充分に注意して、世のため人のためになる事をまずは基準とすべし。世の中の進化と向上に寄与できる人になりなさい。という事を説いてくださった。

私は「戒めにしては怖すぎる話だな、でもなるほど」と思いました。願望実現を説く話はいろいろとあるけれど、天風門下の陶芸家「元風」先生の言葉が大きいです。

Meiko

今日はたくさんのお話を聞かせて下さって感謝です。もっといろんなトピックでゆっきーさんとおしゃべりしたい。いつもそうなんですが、深堀りインタビューをするたび、グリーンピーズの皆さんそれぞれの深さを知る事になり、まだまだ深さも幅も未知じゃないかなって、さらに感じさせていただけます。今日はありがとうございました。次回の深堀りのインタビューのバトンは誰に回したいですか?

ゆっきー

次は岐阜のMaiさんの話が聞きたいなぁ。

Meiko
次回もどうぞお楽しみに!!!
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