東京でホームレスを始めてから数週間が過ぎた。
ホームレスの一日が少し分かってきた。基本的にすることはないが、食の確保だけは重要だ、最重要。これを失敗するとすぐに「飢え」という付けが回ってくる。
だから毎日何もしないけど、これだけは必死にする。
社会のはみ出し者は、社会の枠組みの外にいて、その外に放り出されたゴミで何とか日々生きている。
毎日深夜12時なると東口付近の決まったお店の近くをウロつきながら、ゴミの袋がお店の中から運ばれて来るのを待つ。
ゴミ袋が運ばれてきたからと言ってすぐにゴミをあさりに行ってはいけない。
店員の姿が見えなくなってからだ。ゴミをあさっているのを店員が気がつくと、注意される、ひどい人になると暴力を振るったりする。
この間店員に見つかったホームレスの人が蹴りを貰っていた。
「ゴミをあさっているだけでひどいじゃないか」
と思ったが、向こうからするとこちらはゴミに群がるカラスと同じなのだろうか、同じ人として見られてない気がする。
そんなのを見てしまってからはゴミをあさるのも慎重になった。
ここに着いた当初は「縄張り」が存在するのかとも考えたが、この店に関しては何も言われないので、縄張りはないのだろう。
毎日ゴミが出されるのは深夜12時過ぎで、ゴミの収集車が来るのが深夜1時前後。それまでの間、店員がいない時を狙ってゴミをあさるのだ。
もし収集車が来てしまうと、すべてのゴミは綺麗に片付けられてしまい、食を得られずに、次の日の夜中まで待たなければならない。
無事にゴミが取れれば量にもよるがすべてを食べずに次の日の昼用に取っておく。
これが路上生活する私が、生きていくために一日一度しなければならない事になっている。
日中はあてもなく歩き回ったり、ベンチに座ってボーっとしてみたり、今まで自由に使うことのできなかった時間が目の前に溢れ出した。
皮肉なもので時間がない時は時間が欲しいと思うのだが、実際に時間ばかりがあるとすることがなかったりする。
道行く人を見ては「あの人はどこに向かって行くのだろうか?」と考える。
今日の行き先ではない、人生という見えない旅の行き先だ。
人間は皆どこかに向かっているのだろうか、行き先の見えている人ばかりじゃない、見えていない人もいるのじゃないだろうか、むしろそちらが大多数何じゃないか。いや、それより行き先が見えている人間はいるのか?暇に任せて思考を巡らすが答えは出ない。
私に答えが出せる位なら、3000年前のギリシャ辺りで解答が出ているはずだ。まぁいい。
路上ですれ違う人は数え切れないほどいるが、知り合いは誰一人いない。

皆、目の前を流れて去って行くだけ。この旅を始めて「人生で最も飢えた時間」と「人生で最も人と口をきかない時間」を合わせて経験している。行動次第で日常のすぐ側にこんな世界が存在しているとは、今まではなんて快適な空間にいたのだろうか。
周りに言葉を交わす人がいなければ、しゃべる必要がないかと思ったが、独り言が多くなった。何か行動をする時にいちいち、自分に命令するように言葉にする。そうしないと、しゃべることを忘れてしまいそうだ。

自分の居るべき場所がない人は孤独だ。
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いよいよ出発
ゴミをあさる
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