エベレストの春の登山期は4月5月であり6月はない。
なぜなら6月に入ると気温が上昇し、アイスフォール氷塊の崩壊が活発になるからだ。
5月でさえ氷壁の倒壊が起こり、その度にルートが変更になった。6月は更に崩れやすくなるというのだ、そうなるともう登山どころではないだろう。長年エベレスト登山を経験しているシェルパでさえ6月はアイスフォールに入りたく無いと言うのだ。
5月23日の登頂計画が断念されて、私達はキャンプ2に下山した。
そこで今後の天気予報を聞くと次の好天は27日以降になるという、エベレストの登頂記録を見てもそのほとんどが5月中であり、6月というのは皆無だ。通年ならば既に登頂者が出ていてもおかしくないこの時期なのだが、今年はまだ誰一人として山頂を踏んでおらず、荒れた天候が続いている。
天気予報を聞いて私達は絶望感に包まれた。
まだチャンスが残されていると言ってもホンノ僅かだと分かったからだ。仮に27日最後のチャンスをとしてベースキャンプを出発しどんなに早くても山頂まで4日はかかる、下山を入れれば、6月に入ってしまう計算だ。
スティーブが言った。その時はどういう意味で言ったのか話から分からなかったが、翌日ベースキャンプに降りてから
「これ以上の危険が付きまとうなら僕は下山する」
とスティーブはハッキリと言った。ここでの「下山」はエベレストを諦めるとうことだ。あまりに「あっけない」ので私は驚いた。
大金を使い、長い休暇を取り、遥々とこの地まで来たのだ、まだ可能性は完全にたたれた訳ではないのに。私だったらトコトンやってと思うのだが、スティーブはそうでなかった。
そしてそう言ったスティーブを誰も引き止める権利を持っていない。スティーブにはスティーブの山の引き際があるのだ。この隊に募った人達はそれぞれの事情があり、山に対する想いがあり、考えがあるのなら、それを尊重する以外にない。
「撤退するには勇気が必要」
と言うけれどそれは本当だ、今まで積み上げてきたモノを自分の意志で「戻す」と言う行為には、常に葛藤が付きまとう。
「まだ行けるかもしれない」という欲望があり、それに打ち勝った者だけが「引ける」のだ。積み上げた時間と労力が大きければ大きいほど引くことに強い意志がいる。私にもその時が来るのだろうか、ベースキャンプを去るスティーブの背中を見ながらそんなことを思った。