第二回 Japacity 深掘りインタビュー カナダ、トロントのYasuakiさんを掘りました!

Meikoの深掘りインタビュー、二人目のターゲットはトロントでシェフをされているYasuakiさん!長々と時間かけてじっくり掘ってきましたよ😆

Meiko
今日はよろしくお願いします。プライベートなことは話せる範疇でお願いします。
Yasuaki
大丈夫ですよ。私の人生なんて大したことないですよ。面白い話が出来るかどうか?いや、面白いというより、ちょっと稀有な経験が多いのかも。同級生の目線からはそう見えるって言われています。でも、あれこればれても何してもとられるものないです(笑)
Meiko
まな板の上の鯉の気分にさせちゃっていますね🤣

奥様はハンガリー系カナダ人

Meiko
まずは、奥様との出会いからカナダへの暮らしの転機、展開のお話をお聞かせください。ハンガリー系の方だとお聞きしていますが、、、。
Yasuaki
かみさんはカナディアンパスポートのハンガリー系カナダ人。ハンガリー生まれの両親をもち、オンタリオ州内にはハンガリーのコミュニティが存在している町がいくつかあるのですが、そんなコミュニティの一つでもあるフィンチという郊外の町で育った人です。
Meiko

ハンガリー系カナダ移民の由来をお聞かせ下さいますか?

Yasuaki

1956年に起こった、一般的に言われるハンガリー動乱が始まりで、今のウクライナのように、ハンガリー国内では親ソビエト派と反対派の大きな分裂の危機を迎えていた時期がありました。これにより国内で親ソビエト派が強力になり、これを嫌った人々約20万人が国外に数年をかけて脱出、かみさんの叔父がカナダにたどりついたのが1960年代ということでした。当時は直接カナダには入れずオーストラリア経由とか、別ルートなど工夫をされて多くのハンガリー人がカナダに難民として移民してきています。ある程度は資金がないと逃げられないので、親族からお金を借りて逃げて来たという人がいたり、職種もエンジニアや医者など、ある程度ハンガリー国内では裕福だった人がカナダに入って来ていたそうです。アメリカに逃げた人の中には映画の世界で活躍されている人(された人)も実は多いんだそうです。

ときどきかみさんと映画鑑賞に行くんですが、最後のスクロールに名前が出始めると、「あれ?製作者に日本人がいるね?」とか、「あれはハンガリーの名前!」ってかみさんがいち早く気づいて言うので気を付けて見るようになったんですが、確かに結構多くいます。

今ではハンガリーは民主主義国家ですが、以前は社会主義の厳しい国だったわけですよ。着のみ着のまま、家財道具も持たずこちらにいらっしゃって、ゼロから家を建て、会社を興し、家族を育みという努力を続けて来られたわけです。

かみさんの両親は彼女が11歳〜12歳?かな、子供の頃に離婚されているんですが、お母さんは破天荒な方だったようで、その後まもなく再婚されています。彼女の最初の家族はご両親の離婚で離ればなれになることになりました。上のお姉さんはお父さんについて行って、3人娘の下二人は母方についていくことに。彼女はお母さんに引き取られ、エドモントンに引っ越しました。当時すでにエドモントンにもハンガリーコミュニティがあり、幼少期から高校まではそのコミュニティで彼女は育ちました。頭が良かったため高校は飛び級で2年で終え、トロント大学へ進学。大学に通える場所におじさん、おばさんが住んでいたのでお世話になりつつ、大学も3年で終えました。同年代さん達よりも一足早くに社会に出られることになりました。ただ、同時に同じ年の友達がいない環境でもあったようです。

大学には奨学金利用で通っていたため、その返済も視野にいれ、JET Program(※)の第4期生に応募。それで日本へ行くことになったのです。22歳の若さだったと思います。彼女が言うには日本という国は学生ローンを返すためだったら、是非とも行って働いてみたい国の一つだったそうです。

※JETプログラムとは、日本政府主催(総務省、外務省、文部科学省、自治体国際化協会)の大規模な国際交流事業です。JETプログラムは日本と諸外国の人々の相互理解を深めるため、外国語教育を推進し、日本の地域国際化を推進することを目的としています。

Yasuaki

それで赴任先が岩手だったんです。とある中学校と、その他にも二つの高校に授業に行き、英語を教えていました。今は奥州市内になっているところです。移動距離のある学校間をいったり来たりで教員をしていましたが、衣食住環境にはとても恵まれていたそうです。職員宿舎に(ぼっとんトイレだったそうですが)住み、食事は「食べにおいで」とあちこちから呼ばれてご馳走になり、日々周囲の人に支えられて、お金のたまる暮らしができたそうで、次々と学生ローンを返していっていたそうです。

奥様との出会いは?

Meiko
そんな奥さんとどこでどのように出会われたのですか?
Yasuaki

私は最初は、東京のとある有名レストランに就職しており、岩手に新しいホテルができるということで、戻ってきていたんです。オープニングスタッフとして準備チームに。いろいろ勉強させてもらって、当時の親分が有名人だったのですが、実は彼がやらかしちゃったんです。調理師の世界は上下関係が厳しく、親分が新しいホテルに移動するといったら子分チームが付いていく。そのやらかしちゃった親分は、業者からのキックバックから大量に抜いていたのがばれて首に。下の若手(自分も含む)は露頭に迷うことになるわけです。新しい親分さんが子分を連れてやってきて、その中でよそ者扱いされつつしばらくは働きました。居心地が悪く、父親の知人がレストランをするというので誘われ、ホテルをやめることに。やめたはいいけど、その知人の人が蓋を開けたら口先八兆で進展せず。その事態を私のせいのようにするような話まででたりして悪評が立ち、、、、あたまから信用したのがまずかった。小さなコミュニティでのそういうことは、NGですよね。

心機一転、職替えをして経営の勉強をしてスポーツ販売の店に移り、なんだかんだとしているうち、店長、エリアマネージャー、転勤の指令、、そんな中で彼女に出会いました。スキーを買いに来ているお客さんでした。地方でカナダ人のルックスで目立っている彼女。学校の先生たちとスキーの小旅行があると聞き、そのとき駅までスキーを乗せて送って行くことに。その後、スキーを教えようか?という話から、スキーデートに行くことになったんです。

Meiko
当時こんな男子、スキー場にいた~~😂
Yasuaki

それまでは休みの合う親戚や友達とスキーに行っていたのですが、職業柄、平日が休みだったので、だれとも休日が合わず一人でスキーに行くことも多かった。たまたま冬休みだったことで、休みだった彼女とスキーに一緒に行ったんです。

ここからですよ。私の勘違いの話なんですけどね。カナダ人だし、まったくのステレオタイプでスキーは上手い人だと勝手に思い込んでいました。

そして安比高原スキー場へ。到着してすぐさま、「じゃあ行きましょう!」ってゴンドラに乗って頂上に行ってしまったんです。標高1800mとか2000mのところ。初心者にはかなり大変なコースの上でした。

そうしたら、そこで彼女が、「どうやって滑るの??」

私「????? え?スキーしたことないの????」

彼女「クロスカントリーしかしたことないわ、」

私 「え~!????」ってなって。

心の中で、「え~!????彼女は「初心者だ」って言わなかった、いうタイミングがなかった?、そして聞かなかった俺??」

”てっきり”っていう勘違い、思い込みをしてた自分に気付いて頂上でまっさお😱だったわけです。

Meiko
😱😱😱
Yasuaki

初心者にはまずボーゲンを教える。自分は後ろ向きの逆ボーゲンで、彼女の板を抑えて、ターンのたび、「こっちに体重!」って体重移動を教えつつ。一本1時間以上をかけてなんとか下までおりてきたんです。まさにえっちら、おっちら。。朝イチで上がったけど、お昼くらいにようやくロッジに戻りました。当時はお互いにまだたどたどしい英語とたどたどしい日本語の単語をいっぱい並べて。なんとか一日を過ごし、苦労を共にしたのが良かったのか、彼女の方から2度目のお誘いが来て、、、そこから付き合い初めて、出会った翌年には結婚に。

Meiko

きっと、とっても頼りになるし、自分の素をそのまま出せて、受け止めてもらえる人だって思われたんじゃないのかなぁ。

Yasuaki

彼女のJet Programの当初の2年の任期の後、後任の先生が来ないということで、コントラクトが延長になることに。合計4年日本で英語教師として働いていた彼女は、「カタリン先生~!」って地元では人気の教員でした。

本当に早とちり、勘違いから始まるお付き合いでした。

Meiko

私はいつも人間関係のトラブルは、特にコミュニケーションによるトラブルは、早とちりや勘違いから始まるって言って来ていましたけど、こんな素敵な勘違いの結末もあるんですね。ちょっと感動。

そしてカナダへ移住

Meiko
結婚してからも日本だったんですね。
Yasuaki

3人の子供達は全員日本生まれです。長男が生まれる時は地元奥州市で、転勤4回もしてて、山形で働いていた時代に下の双子が生まれたんです。

出店攻勢をかけていて山形で3店舗になったところで本社に戻る?というオファーを断り、地元に戻ることにしたんです。当時スポーツ業界に影がさしだしているのを感じていたし、内部事情を見ていて、この会社には未来があるのか?やばくなる前に自分本来のシェフの仕事に戻ろうと思い、退社しました。

日本でレストラン展開を準備。事業計画書や銀行の融資、その他もろもろ、数字も得意だったので、ねりに練った計画書がまさにできる、、というところで、かみさんの方から「私10年日本で頑張ったんだから、今度はあなたが10年はカナダで頑張ったら?」という意見が出て。

Meiko
そういう経緯でカナダでしたか!
Yasuaki

若くて変な自信もあったと思うんです。料理のセンスにもそこそこ自信を持っていて、経営にも自信を持っていた。できない人を見るとイライラしちゃう自分がいたり。人と一緒にやるのはいまいち得意ではなく、自分がやった方が早いかな。とあれこれ一人でやってしまうタイプなんです。

だから自分の下では人が育たないかも、とも思います。昔の調理師の世界は見て覚えろ。という文化。教えたり、人をケアしたり、、という部分に苦手意識があり、自分自身でやりたいという願望があった。。

そこで、日本の家、家財道具全て処分して、段ボール箱3つでカナダに来ました。

ネガティブな意味はなく、新しい道に一歩を踏み出す意味でした。35歳の時でした。あの時、本社勤務にYesと言っていたら、盛岡勤務だったんです。

Meiko
決断のときだったんですね!
Yasuaki

カナダに来たは良いけど、自分の英語の不自由さ、不十分さを知っていたので、あえて日本人の少ないレストランの門戸をたたきました。最初のアルバイトで入った店は、ジューイッシュ(ユダヤ人)のオーナーに声をかけていただいたというご縁があって、そこで働き出しました。ラバイ(ユダヤ教の聖職者)という人がいて、これはコーシャーか否かという厳しいチェックが全ての食材にありました。ブロッコリーは房の間に小さな虫が入っていることがあり、それは洗ってもなかなか取れない、それは殺生になるのでダメとか、ミルクと牛肉やバターが一緒になっているものもだめ。宗教上混ぜてはいけない決まりも厳しく、豚は不浄な動物という扱いでもちろんだめだし、キッチンやナイフまで、コーシャー認定でお祈り、お清めをしてから利用という店でした。

彼らは、金曜日には水だけとかエビアン一本とかで食事をしない、という習慣の中で暮らしており、店に来て、お水一杯とバゲット一本で50ドルとかを平然と払うような客層がいたり、たいしたことのない料理を出してもお一人100ドルなんて場面が多かったので、ある意味なんだか異様な世界でもありました。シンプルなお料理に塩、胡椒とレモンだけとかなんですね、コーシャーフードは。

そこには2年半いました。そのあと声をかけていただいた、家から車で45分くらいかかる場所にあるレストランに移動しました。その後、家から30分くらいのところにできた新しいフレンチを混ぜた北米スタイルの料理を出す店のオープンスタッフになり、メニュー作りから力を注ぎました。

コーシャーの店で抑圧されていたことからの解放感で、楽しかったです。3人共同経営者が居て、時間が経つうちマネージメントのことでもめ3人が仲違い。料理は良いものを出せていたのですが、一人抜け、またごたごたもめ、新オーナーが来て。料理は自由にコース料理を含めて作らせてもらっていたけど、チームの雰囲気は悪かったんです。

ある時、(今働いている)レストランがオープンに向けて工事している現場を通りかかり、オーナーが偶然そこにいて、立ち話になりました。話が弾み、この新しいレストランのオープニングスタッフとして呼ばれることに。当初雇われていた若いヘッドシェフがなんとも要領を得ず、でも余計な自信持ちのような感じの方で。スーシェフ(副料理長)としてサポートしたけど、彼は一年続かずに首。オーナーはまた別の所からヘッドシェフを連れて来て、再び、また同じような事が繰り返され、何度かの失敗の後、自分がヘッドシェフになりました。

前オーナーのもとで10年使ってもらってきました。そのオーナーの伴侶の方がガンを患ってしまい、職場に来られないことになり、今のオーナーがまた新しいシェフを連れて来て、そのヘッドシェフは3ヶ月しか持たず、再び自分がヘッドになって今5年です。

コース料理もやりますが、地域のお客様が来やすい場所であることで日銭も稼げるという現実もあるので、サンドイッチやバーガー等のお皿も出しています。コロナでメニューを絞ってやってきています。コース料理、バンケットの大皿料理も出して、ここまで、アップダウンを越えてやってきたのですが、現在はリアルの中でオーナーが落ち込んでおり、店は売りに出ているのですが、まだ売れていないという状態なんです。

この先は地ビール業者、個人でやっているオーナーさんとビジネスアライアンスを作ろうという方向で、動き出したところです。

昨今の食材の値上げや仕入れできない食材が出てきていたり、コロナ禍は明けてきていますが、飲食は今厳しい境地に立たされています。油の価格は前年比の2.5倍くらい。従業員不足もかなり深刻で、仕込みに手や時間をかけきれない、、というチャレンジもあります。

本来だったら時間と愛情をかけて作るストックとか煮込み料理とかもしていきたいんです。やりたいことはいっぱいあるけど、しきれない。さくっと作るとコスパが悪くて高いという声が聞こえたり。毎日チャレンジです。

高すぎるという声が多いのが現状。まずいとは言われていないんですけれど。。。

店の営業時間もラストオーダーの時間を前倒ししているので、そこに文句を言うお客さんもいるし、自分の長時間労働、特に今年の超過勤務は正直きついです。。。

でも、クラハをしつつ楽しんでいます。(一人でキッチン回してますから、、頭おかしいですかね。)

別荘ライフについて

Meiko
郊外の別荘で過ごされたり、森の湯を作って楽しんでおられますが、そのあたりのお話を聞かせて下さい。
Yasuaki

仕事以外の趣味は、日本時代はゴルフ、釣り、キャンプ、なんでもしていたんですが、カナダに来てからは友人が少ないし、お休みが一般の人と違って週末でもないので、子供達とも遊べずだったり。最初仕事3つ掛け持ちなんてもしてて。

ここ10年でようやく釣りができるようになりました。最初の10年はお休みすらままならない働き方をしてきていました。子供の面倒も余力がなかったので、子供達にも辛い思いをさせてきてしまったかな。食って生きるので精一杯の時間が長かったんです。子供も小さい頃は貰い物の服を着ていたり。苦労を掛けてきています。ヘッドシェフになってから初めて子供達に好きな物を買ってあげられるようになりました。

お金と時間があればいろいろできる、子供達が大きくなってからようやく釣りを教えたり、時間を共有できるようになって、親子関係が良くなってきました。小学校に上がってちょっとで(カナダに)来た長男は当初はこちらの環境になじむのに時間がかかったし、最初は「あ、日本の男の子だ」っていう感じでアニメだのなんだので、短い時間はちやほやされたけど、その後はつらくなっちゃった様子でした。お父さんが忙しく家にあまりいない、教育云々全てかみさんまかせ。でも来たばっかりの時は必死で、家族を食わせることに専念して働いていました。

今ではミドルクラス(中流階級)のカナディアンより頂いているとは思うので、欲しいものが買えたり、旅行にいけたり。遅かったかもしれないけど、償いしつつ、いい感じで過ごせています。

Meiko
ステキなご家族写真!
Yasuaki

同じオンタリオ州で暮らす、大学時代にかみさんがお世話になった子供がいなかったおじさん、おばさんの介護と老後の看取りをお二人ともしました。

おばさんのがんの介護、おじさんは奥さんが先に旅立って寂しかったので、一週間に一回は料理を一週間分届けて行っていました。そのおじさんが去年安楽死を選んだんです。安楽死は5年前にカナダで合法になっていました。おばさんにはおじさんを頼むねと言われていました。その時が来た時、頑固なおじさんはご自身の強い意思でどうしても!と決めておられ、家族としては本人の意思に同意。もちろん苦渋の決断でした。

弁護士さん二人、お医者さん二人のサインを頂いた上、メンタルサポートのスタッフの立ち合いで、その日を迎えたのです。直前まで、おじさんはみんなとおしゃべりしていて最後の時まで笑っていて。サポートスタッフの人が逆に泣いちゃって。やめろとは彼らは言えないわけです。でも旅立つ事を決めた人にジョークなんて言われてしまい、サポートスタッフの人は涙を止められなくなってしまったんです。その方は病室からは退出されました。注射3種類を打たれての安楽死でした。

本当に稀有な体験でした。

人の命の大切さを体に重く感じ、もしも命を絶ちたいなんて思うような人がいたら、この先は自分は全力で止めます。

Meiko
😢
Yasuaki

そのおじさんとおばさんが住んでいらっしゃった場所の管理と全てを受け継いで(所有権は彼らの生前から50パーセントはかみさんのものに譲渡されていましたが)、今はそこを大事に大事に別荘として守っています。これからも守っていこうと思っています。

血はつながっていないおじさん、おばさんだったのですが、本当にたくさんお世話になって、恩返しして、、、そして今です。

その場所を大事にし続けたい思いを胸に、その裏庭に森の湯を作ったんです。そこに知り合って友達になったみなさんに、本当に遊びに来てほしいと思っています。

たまたま作るのが好きでDIY。カナダって人件費高いじゃないですか。その別荘のベースメントもコンクリート打ちっぱなしだったので、そこに配管、配線全部して、アップグレードしました。時間とお金があったら何でもできます。

魚釣りも自然と触れ合うという部分ではシビアに向き合っていて、釣るにあたっては水温チェックからします。車で一時間半くらいのところ、トロントからオタワに向かいオンタリオ湖のヘリを上がって、いいサーモンが上がってくる場所まで出向いて釣りします。毎年遡上数が減っていたり、水温の変化など記録もいろいろ残っていて、リアルに環境の変化を感じています。

Japacityとは?

Meiko
YasuakiさんにとってのJapacityとは?
Yasuaki

コロナになったから来れたっていう場所。今まで仕事ばかりしていたので、周りや自分の時間をとる余裕がなかった。自分を取り戻したいという気持ちがあるのかな。日本人、人間らしく戻りたいという気持ちがあったので、リアルに自分を引き戻してくれるような場所かな。

以前はあまりにも日本人の方とのふれあいが無かった。日本人としてのアイデンティティを再認識させてくれたような場所。不安だったところ、ぼやけていたところが見えるようになってきた。そんな感覚を呼び戻してくれたような気がしています。

自分は本当にこれでいいの?という部分が見えなかった感じがあったのが、広い海で一人で航海しているという感覚に、夜空に星が現れて、自分の場所が分かるようになった。。みたいな。

日本津々浦々、海外のいろんな方と出会えて、自分を図る定規が欲しかった部分が見えてきたというか、自分や人を知る場所です。

リアルライフでは、思い起こしたら日本にいた時はボランティアなんてしなかったけど、カナダではレストランの炊き出しとか、そういう活動もしたり、必要とされているところには余裕があれば行きますよ。

世界や日本の各地でそれぞれの人生にみんな個性的に取り組んでいる生の声をこうやって聞かせて頂けることに感謝。Yasuakiさんの静かな語り口に約2時間弱聞き入ることができたインタビューでした。

人生って本当に生ものだし、その道筋はそれぞれ違うし平坦な道だけ、という人もいないと思うけど、貴重な体験談のシェアに感謝します。リビングルームでも皆さんとのつながりを人一倍大事に考えて下さっているなって気づかされる時もあります。これからもまた、お話聞かせて下さいませ。

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