第38回 メンバーインタビューはじゅんちゃんこと松岡順子さんを深掘り!

今回のメンバーインタビューは、Japacityデビュー(?)当時から何かとお騒がせのじゅんちゃんこと松岡順子さん。リビングではジャイアンのごとく歌を歌って荒らし軍団を蹴散らしたりする武勇伝があったり、その一方ものすごく奥が深く物知りなところもあって、深掘りも興味津々!Meikoさんが掘ってくださいました!

とんがってた学生時代

Meiko

まずはKazuyaさんからの質問です。

じゅんちゃんは千葉の大学に通っていたと思うのですが、学生時代ってどんなじゅんちゃんでしたか?

じゅんちゃん

とんがっていましたね、、なんだろうね、当時は何々派みたいな”セクト(分派)”というのがあって。私の2代3代前には“赤軍派”みたいなおそろしいのもあったけど、私たちの時代は学校の中で、“左派”とか“右派”とかいろいろあって。

通っていた大学は当時は福祉特化の単科大学だったのですが、福祉を学んでいたのは貧乏学生が多く、全国から集まってた。アパートに住むのは高いとか、借りられないという子がいっぱいいたような時代。女子寮が二つ、男子寮が四つくらいあったかな。とにかく全国から学生が集まっていました。大学が「学費をあげる」と発表した際、「福祉の担い手の労働者になろうとしている私たち、未来の福祉を担う学生がさらにお金を出さないと勉強ができないというのはどういう事?」「福祉を受ける対象者と自分たちが乖離するだろう!弱い者が弱い者なりに福祉を理解して、弱い者同士が支えあう、それが本来の福祉の姿で、富める者が弱い者に施す福祉はおかしいのでは?学費を上げるのはそういうことに反しておかしい!」と断言して、学生ストライキをしました。学校にだれも入れないように✕を入り口に貼り、その前で座り込みを10時間くらいやっちゃったり、夜になったら夜番をたて、焚火をしてお泊り番をしたり。。

Meiko
そりゃとんがってたね。。今になったらいい思い出ですか?
じゅんちゃん

どうかな~? 実はおととし卒業40年でサークル(手話サークル)が一緒だった仲間と母校の大学を見に行ったんです。そうしたらね、昔はそれこそ陸上競技のトラックが300メートルくらい、サッカーグラウンドが2つとれるような、広い校庭だったのが、全部建物で埋め尽くされてた。なんちゃら研究棟とか、なんちゃら講義棟とか。バスケットボールコートの半面の3オン3コートが一つ残ってるだけでした。愕然としました。ああ学費をあげてこうなったのかぁ。。。って(笑)

「福祉ってどういう事?」ってさんざん主張していた昔。学費を上げてたくさん学生を集めた学校が、その末、建物だけは立派だったけど、これが?ってなんだか、つながりが感じられない気が。。。そこに一緒にいたメンバーと手話で話していたら、現在「手話サークルです」という人が手話で話しかけてきた。「今は群馬から来たの、大学に通ってた時は埼玉から通ってて、白幡で暮らしてたんだよ。」なんて、おしゃべりしました。後輩の中にもこういう手話サークルがまだあるんだなって思いましたけど。

ケアマネのお仕事

Meiko

ケアマネの仕事から学んだことで、みんなが知っていた方が良い事ってありますか?

じゅんちゃん

もしも利用者になったら、ケアマネが自分の話を納得するところまで聞いてくれるか。そこから、プランを充分に作ってくれて、利用できるか。この人にだったら、プランを変えてって言える、自分の事を良く分かってくれる、第二の家族になってくれると思えるような人に出会えるようにリクエストをして下さい。

「この人だったら、自分の想いをサービスに乗せてくれる人だな」っていう人に出会っていく。これが大事。

Meiko
どんなお仕事でしたか? 具体的に教えて。
じゅんちゃん

ケアマネというのは介護保険ができたあと、どういう風に介護保険を使うのか、使えるサービスとはどういうふうなものがあって、どのように利用できるのか、ランクとしては、要支援1、2、要介護1から5までがあり、現状に基づきランクを決め認定していくという一連の流れからどういうサービスが使えるか、の把握をまずする。その個人についてのQOL(Quolity of Life、生活の質)にどうつながるかを考える。

まずは、レストランのウエイトレスのように本人のところにメニューを持って行って、ご希望を聞く。それを厨房にもっていって、そのサービスを「いかがですか?」と持っていく、そんなボーイ、ウエイトレスのような仕事だと感じています。ただ、働くレストランはいつも違う店。この店のどの料理がこの人に一番美味しいかなと心を配る。

地域の5つデイサービスがあったとしたら、どこのメニューがその人の栄養に一番なるかな?って考えて、ここのお料理がおいしいよって選んで、サービスやアクティビティーをお勧めしていく。催しものはここのが楽しいよ。。とかね。一人ひとりに寄り添うケースワークです。

そこを見極めていくお仕事。各デイサービスの特徴も分かっている必要があり、そこのスタッフさんの事を知っていて、理解しているという事も大事。

そこを大事に思いつつ、ケアマネとしてのアンテナを磨いていました。

ケアマネの試験の合格率って30パーセントくらいなんです。かなり皆さん頑張って勉強していると思います。私はケアマネ?って何っていうのを全て理解する前に動きながら学び、考えて、まだ介護保険も方向が定まらないまま、っていう時代にスタートしていますが、介護保険は今は全ての人が払っているんだから、最大限に利用しよう!とケースに寄り添うようにしていました。

Meiko

Katsueさんと ミッキーさんからの質問です。 

記憶に残っている利用者さんとの思い出ありますか。(いい意味、悪い意味、いろいろあるかな)

じゅんちゃん

そうね、いろんな意味で見送らなくてはならないお仕事も入ってくるから。。思わぬことで入浴中にお亡くなりになった方、マンションでご家族に見守られながらいかれた方とか、、何人もいらっしゃいました。

外国航路の船旅をしていたおじいさん、彼はダンスが好きで、タキシードを着ていつもダンスをしていた。「俺が向こうに行くときはこれを着て行きたい」とおっしゃっていた方。その方はタキシードを着せてお送りしました。

また、大腿骨骨頭骨折で入院、オペ、元気になりつつあったのに、入院中にまたベットから落ちて別の所を骨折、入院が延びてしまった方。ようやく退院して良かったねと言葉を送ったら、間もなくもう片方の大腿骨骨頭骨折。本人がさんざん残念だっていうので、さんざん聞いて。。でも、ここから、気持を切り替えて未来を考えようねと言った。起きてしまった事は変えられないから、これから骨折しないように暮らすには?骨折しない生活は?って、さんざん二人で色々考えました。家族にも、一緒に。そして押し車利用で歩行するって事に。

ただ担当がどんどん変わってしまう、、という世界でもあり、じきに私は違う事業所にいった。とあるレストランである時その方がいるのを見つけて、挨拶しようと思ってたら、向こうが一緒に居る人とひそひそこっちを見て話してた。しばらくしたら、だれかが押し車を持ってその人の所に登場。(笑)(たぶん私の顔みて、あ、押し車ちゃんと今使ってないのがばれちゃう?って思ったのか??)

いつもお着物?

Meiko

もう一つミッキーさんから。

着物生活、オフ会、新幹線ずっと着物でオフ会にもいらして、着物をシュッと、どんな着物生活? こだわりって? 

じゅんちゃん
着物の着方?私はまだまだ、こだわりまではいかず、春夏秋冬、12か月のうちに何をどう来たらよいのかは、何月何日にお茶会や人にあうのに何を着て行ったらいいのか、着物リサイクルセンターの人に聞きながらやっています。こだわりまで、たどりついてねーっすよ。
名古屋オフ会!
Meiko

じゅんちゃん、普段お着物でない時はどんなスタイル?

じゅんちゃん

たいていズボンにTシャツ。足は腕より白いよ。(笑)

Meikoさんも水泳してたから分かると思うけど、小学校4年から中3までは泳いで焼けるという生活だったから、髪も焼けちゃう、おなかより背中がさらに焼けちゃう。ゴーグルとかはしていなかった時代で、顔も真っ黒。裸族になったら実は逆パンダみたいな。、そんなでした。高校は埼玉の新設高校で、プールが無かったので、陸上部のマネージャーでした。

ストリートシンガー&俳句担当

Meiko
じゅんちゃんは、ストリートシンガー担当でもありますが、そういわれるようになったそのルーツは?
じゅんちゃん

それは、昼のやさしい歌を歌いますというクラハ内のお部屋で、そこで歌っていたからです。

最近お昼は入ってないけど、そこのルームの名前から来ています。

Meiko

またまたミッキーさんからの質問、「俳句を始めたきっかけは?」 

Yuki先生からは、「じゅんちゃんからちらっと一年前に聞いた、じゅんちゃんと俳句とお父さんとのエピソードを教えて。」という事で、俳句やお父さんについて思う事を教えて下さい。

じゅんちゃん

ホトトギス令和4年6月号、幸太郎先生が書いてくれた文章の中に、父、松尾緑富(りょくふ)が編集長であった云々が書かれています。父は俳句雑誌の先生について俳句をつくっていて、その同人の一人だった。ホトトギス社の編集長がなくなった昭和56年から父が編集長に引き抜かれ就任した。当時新潟でしていたある工場の工場長の職を辞し、ホトトギス社の編集長に。俳句は作っていたけれど、仕事にはしていなかった父がよくそういった思い切った転職ができたな。と今でも思うし、凄い親父でした。

母は家の中ではずっとハイクウィドー(俳句未亡人!?)でした。父は敏夫先生がご存命の時は青虎さんという人と、共に まさに「助さん、格さん」状態で、日本中を行脚してて、家にいたことがほとんどないような父だったんです。

ある時、一緒に句をつくれっていわれて、父に自作の俳句を見せていたような時期があり、あるとき、私が作った句の17文字の一文字だけを変えて、ホトトギスに出した。「それじゃ私の句じゃない!!」って文句を言ったら、それ以来いっさい俳句の話をしなくなった。もっと彼に食いついてやっておけば良かったな、って後に思ったけど、当時は本当に許せなかったんです。

糸島の家を片付けに行った時、3月くらいに亡くなった汀子先生の時代、ホトトギスの歳時記(季語をしらべる辞書のようなもの)を作り直していたものがあって、それを見つけたんです。その歳時記に、親父の句がたくさんのってて。私も一句くらい、歳時記に乗るような句を作りたいって思ったんです。その時本当に、教わっておけばよかったなって。彼が亡くなってからそんなふうに思った、時すでに遅しでしたけど。。。

Japacityとは?

Meiko

いつものお決まりの質問をMeikoから。

じゅんちゃんにとってJapacityとは。

じゅんちゃん

心のふるさと、心のリビングルームですね。ホント。

それで、着物はまだまだ上手に着れないし、何をどう着たら、、、しどろもどろなんだけど、Suzuyo先生にご指南いただきたく思っている今日この頃です。

師匠Suzuyoさんとツーショット!
Meiko
以上~、さらばじゃ~~~😂😂
デビュー当時wはよくリビングで泣いていたけど、今はすっかり成長して😂素晴らしいモデレーターになっているじゅんちゃん。これからもリビングで楽しいお話聞かせてくださいね!
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