カトマンドゥに到着してあっという間に数日が過ぎた。
雪崩や滑落の恐怖に怯えることも、天気予報を聞いて一喜一憂することもない、あの薄い空気の中での記憶が薄れ、腑抜けた平穏な日々が流れていく。
カトマンドゥの街中を自転車を漕いでいて、ふと立ち止まった。何かが視線に入ったからではなく、自分の手のひらを見るためだ。
ハンドルを握る手の平をシミジミと眺めた。片手の5本の指がついていて、両方で10本だ。
頭の中で「閉じる」と思えば、手は閉じ、「開け」と思えば開いた。なぜか「生きて帰って来たんだ」と強く感じた。
凍傷にかかれば失うかもしれなかった指も全てある。
この時まで心はまだ険しい山の中に居たのだ、それがふとした瞬間、ここに戻ってきた。体そのものは何日も前に街にいたのだけど、不思議に現実感がなかった。
それが今、夢から覚めたように、しっかりと意識が現実に戻った気がする。
心が体に追いつたこの瞬間「エベレスト登山が本当に終ったんだ」と思う。